生魚を食べる日本の鮨(寿司)の歴史

魚介類のトリビア

鮨(寿司)の起源

なれずしのはじまり

鮨の歴史はとても古く、東南アジアの山地民族が生魚を米と塩で発酵させて保存する方法から始まったと言われています。

魚などに大量の塩をふり、米と一緒に数か月間貯蔵すると、乳酸菌の働きで発酵します。発酵期間が長いほど、魚と飯の味が混ざり合って独特の風味になります。また、乳酸菌の増殖によって酸味が強くなり、雑菌の繁殖を防いで保存性を高めます。

中国で「鮨」という文字が書物に登場したのは、紀元前5 – 3世紀に成立した辞典『 爾雅 』が最初とされていますが、このときの鮨は、魚の塩辛を意味していたようです。まだ、米は使われていなかったのでしょうね。

その後、漢代(紀元前206年~西暦220年)に入ると、東南アジアから中国になれずしの製法が伝わったようです。つまり、この頃には、かなり広い地域でなれずしが作られていたことになります。

南北朝時代(420~589年)になると、農業・牧畜や・衣食住全般について記された「齊民要術」という本が書かれました。その中で、鯖や鰯、鯛や鮑といった魚介類を塩と米で漬け込み発酵させたものを鮨と呼んでいるそうです 。いまでいうなれずしですね。

なれずしの日本への伝来

日本になれずしが伝わったのは、奈良時代(710年~794年)とする説やそれよりもっと前の縄文時代後期という説もあり、諸説さまざまです。

日本において鮨が記載された文献には、奈良時代(710年~794年)『養老令』(718年)の「賦役令」があり、、鰒(アワビ)鮓、貽貝(イガイ)鮓のほかに雑鮨が見える、という記述があるそうです。これが日本で鮨の記載がある最古の書物なので、奈良時代になれずしが伝わったということになっていると思われます。

でも、なれずしを作るには、魚のほかに米が必要であることを考えると、中国から稲作とともになれずしが伝来した可能性もあります。稲作が日本に伝来したのは紀元前300年頃ですから、縄文時代のおわりから弥生時代にかけて、なれずしが日本に伝来したと考えても不思議ではありませんね。

なれずしから早ずしへ

奈良時代から現代まで、なれずしが握り鮨にどのように変遷していったかを詳しく見ていきましょう。


なれずしは、魚を塩と米で発酵させることにより、腐敗を抑制したもので、もともとは発酵させた米は捨てられるものでした。

奈良時代には、なれずしは租税として都に集められ、貴族や官人に分配されていました。『大宝律令』(701年)や『延喜式』(967年)には、さまざまななれずしの種類が記載されています。例えば、アユ、フナ、サケ、アワビ、イガイ、ホヤ、イノシシ、シカなどです。平城京から発見された木簡にも「多比(タイ)之鮮」や「胎貝鮮」などの文字が見られます。

平安時代には、なれずしは神饌や行事食としても用いられていました。『今昔物語』(12世紀始め頃)には、貴族がアユずしを好んで食べた様子が伝えられています。また、『庭訓往来』(南北朝から室町初期)には海の魚のすしとしてアジずしが出てきます。

室町時代(1336年 ~ 1573年)には、なれずしの製法や材料が多様化しました。漬け込み期間が数日に短縮され、「生成(ナマナレ)」と呼ばれるものが始まりました。古来からの本来のなれずしでは米飯を漬け床として使っていただけですから、食べるときに米飯は捨ててしまう習慣がありましたが、生成では米飯は充分に食べられる状態ですから、魚と一緒に食べるようになりました。つまり、生成の発明により、寿司は保存食から魚と米を一緒に食べる食物に変化したのです。

発酵を短縮する手段としては、酒や酒粕が使用されていました。これらの成分は発酵プロセスを早め、より早く食べられる寿司を作ることができました


江戸時代(1603–1867)に入ると、早ずしという新しいタイプの寿司が発展しました。早ずしは、発酵という手段を使いません。酸味をだすため、酢を米に混ぜて魚と一緒に食べる、現代でいうファストフードに変化しました。

今日世界で知られている多くの寿司の種類、例えば、ちらし寿司、いなり寿司、巻き寿司、握り寿司などはこの時期に発明されました。これらははやずしの一種ですが、各地域で、多種多様な寿司が作られ、多くの世代に伝えられてきました。

にぎり鮨の登場

現代の握り鮨の形、つまり、酢飯のうえに魚の切り身をのせ握る形は、1820年代ごろ、両国で鮨屋を開業していた華屋与兵衛(1799年 – 1858年)が考案した、あるいは、完成させたということです。

この時期の握り寿司は、現代の握り寿司の約3倍の大きさだったということですから、かなり食べ応えがありますね。わさびを使うのも与兵衛が考案したという説があります。


江戸の風物を書いた守貞漫稿によれば、鮨ネタとしては、江戸前のコハダ、白魚、マグロ、アナゴ甘煮や卵焼といったものだったようです。

 

国立国会図書館デジタルコレクション 「守貞漫稿 後集巻1」 より


東海道五十三次を描いた歌川広重(1797-1858)も鮨の絵を描いています。

歌川広重 すしの絵


1804年、ミツカンの創業者である中野又左衛門は江戸に下り、江戸で人気の早ずしを食し、米酢を粕酢にすることができたら、もっとおいしい鮨ができるはずだと考え、1845年頃には、赤酢を開発しました(ミツカンのHP)。

赤酢は鮨用に開発された酢だったわけです。どうりで、握り鮨に赤酢がよく合うのですね。

こうして、鮨の知恵は大昔から脈々と受け継がれ、現代に至ります。

東南アジアでなれずしを開発した山岳地帯のみなさん、日本でなまなれ、はやずしへと進化させたみなさん、そして、握り鮨を考案した華屋与兵衛に感謝しつつ、今日もおいしく鮨をいただきます!

     

このように、なれずしから握り寿司へと進化させてきた我々日本人は、柔軟な発想力があります。

この柔軟な発想力は、困難な状況を突破するのに大いに役立つのではないでしょうか。突破力を高めたい方はこちらのサイトをご覧ください>>突破ラボ

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健康的な食事メニューを提案するなど、運営のアドバイザーであった内科医が、このブログの監修をしています。食事療法を実践する医師として、多くのテレビ出演、雑誌掲載歴があります。

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